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プレス技術 連載「世界のなかの日本、日本のなかの世界」

2025.12.05

第10 回 「名前」というアイデンティティー

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帝京大学 平田 好

ひらた よしみ:日本語教育センター センター長。早稲田大学卒業後、1995 年からベトナムを皮切りに世界各国で日本語教育に携わる。2021 年に帝京大学共通教育センター教授に就任し、2022 年から現職。修士(国際関係学。2000 年早稲田大学)。
 目の前にいる学生をなんと呼ぶべきか、迷うことがよくあります。そこで、初めて会った学生には必ず「どのような名前で呼ばれたいですか」と尋ねるようにしています。
 もちろん、学生証には顔写真とともに学籍番号と名前が記載されています。日本の学生であれば、例えば「平田 好 ヒラタ ヨシミ」のように名前が表示されていて、姓が「平田」、名が「好」と理解できます。筆者の名も簡単には読んでもらえないタイプであり、名の読み方はなかなか一筋縄ではいきません。しかしカタカナでも書かれているので助かります。日本の学生の場合、呼びかけるときは「姓」+「さん」で、まずは問題ないでしょう(同じ姓の学生が複数いて、区別するために「名=下の名前で呼んでください」と言われる場合もありますが)。

世界には「姓」がない名前がある

 一方、留学生の場合、「HIRATA YOSHIMI ヒラタ ヨシミ」と表記されます。漢字圏出身者であっても漢字表記はありません。例えば、「JIAYUTONG カ ウトン」「PHAN THI MINH THUファン ティ ミン トゥ」という表記になります。実在の学生の名前を提示するわけにはいかないので、前者は中国籍、後者はベトナム籍を想定した名前を創作しました。通常、中国であれば「姓」で呼び、ベトナムであれば「名」で呼ぶので、「カさん」、「トゥさん」となるでしょう。

 しかし、姓と名に分けられない名前、姓がない名前は世界では多く存在します。学生証に表記されているアルファベットの名前が、4 つの部分に分かれていても、どれも姓ではないこともあります。例えば、「JENNIE AZUSA DOLPHIN YOSHIMIジェニー アズサ イルカ ヨシミ」(DOLPHINがドルフィンではなくてイルカとなっていることについては後述します)という名前の学生がいたとしましょう。「どの部分が姓(ファミリーネーム)ですか」と尋ねたら、「どれも姓ではありません。全部、私の名前です。私の国ではファミリーネームはありません」という答えが返ってくることもあります。

意外と歴史が浅い日本の「姓+名」

 名前といえば「姓+名」と多くの日本人は信じているのではないでしょうか。しかし、日本において「姓+名」という形式で戸籍に登録しなければならなくなったのは、150 年前のことです。江戸時代の庶民の多くは「姓」をもっていませんでした。明治新政府が、四民平等の社会を実現するために「平民苗字許可令」を公布したのが1870 年。このときは「苗字=家」を単位として国民を把握して課税すると警戒されたためか、苗字の届出が進まなかったようです。

 そこで1875 年に苗字の届出が義務化されました。現在では、「姓+名」を記入・入力しないと、大学の学習管理システムにアクセスできないどころか銀行口座もつくれず、ネットショッピングもできません。しかし、日本に住むすべての人に「姓」があるわけではないこと、「姓+名」が常識ではないことも覚えておきたいものです。

 さて、留学生たちは学生証を手にする以前に在留カード(日本に3 カ月以上滞在する外国人に交付される身分証明書)をもっています。在留カード記載の名前はアルファベット表記が必須であり、カタカナ表記はありません。

 では、留学生たちは学生証のカタカナ表記による名前をどのようにして作成しているのでしょうか? 実は自分で考えて自分で記入しています。はっきり言えば自由です。

 中国籍の「JIA YUTONG(賈雨桐)は、「カ ウトン」でも「ジア ユートン」でもかまいません。中国語の発音からは想像できない発音となりますが「カ アメキリ」も可能です。「WANG(王)」という姓の学生は、「オウ」も「ワン」もいます。「FANG(方)」であれば、「ホウ」も「ファン」も「カタ」でも、本人が名乗りたいカタカナの名前となります。したがって、在留カードでは「JENNIE AZUSA DOLPHIN YOSHIMI」が、学生証では「ジェニー アズサ イルカ ヨシミ」となることも可能なのです。

「呼ばれたい名前」を尊重する

 さて、前回(「プレス技術」2025 年8 月号)書いたように、筆者は1 回目の授業で紙の名札を各学生に作成させています。A4 の紙を三つ折りにして真ん中の部分に「名前+出身地+学部・学科+学籍番号」を書きます。名前は、「アルファベット表記」、「カタカナ表記」、「漢字表記」(漢字での表記が可能な場合)、そして「呼ばれたい名前」すべてを書いてもらいます。教員が学生の名前を覚えるためだけではなく、授業中のグループワークの際には名札を見せ合って自己紹介をするという目的にも使っています。

 「呼ばれたい名前」からは、学生各自のこだわりや出身地域の文化、名前への誇りが見えてきます。日本社会で覚えてもらいやすいように工夫している学生もいます。

 漢字名の中国語発音にこだわる中国籍の学生は少なからずいます。漢字の日本語読みでは自分自身ではない感じがすると言います。「賈雨桐」は、「ジア ユートン」でしかありません。「習近平」は「シュウ キンペイ」ではなくて「シー ジンピン」です。

 中国の漢字の日本語発音は気にならないが、日本語として奇妙な感じがするので、姓ではなくて名で呼んでほしいという学生もいます。姓の「JIA(賈)」を「カ」と読むことは問題ないが、「カさん」は「かあさん」に聞こえるので、名の「ウトン」で読んでほしいというパターンです。若い女性の「DONG(東)」さんも、「とうさん」ではなくて「ドンさん」? それでは、さらに年配の親分さんのようですが、どうでしょうか(笑)。

 日本人にとって発音が難しい名もあります。例えば、ベトナム人の男性名「PHAT」を日本人が発音すると「ファット」、「ハット」としか聞こえません。発音がへたな日本人をおもんぱかってか、ベトナム人なのに「姓」で呼んでくださいと言う学生もいます。

 中には、アルファベット名からもカタカナ名からもかけ離れた「ニックネーム」で呼んでほしいと言う学生もいます。「ニックネーム」で呼ぶことで学生との距離を縮められる気がしますが、その名前は学内のシステムにはいっさい出てきません。出席情報や成績管理には注意しなければならず、照合するのに時間がかかる場合もあります。

 しかし、これからも学生自身が「呼ばれたい名前」で呼ぶように努めたいものです。名前というものは、一人ひとりのアイデンティティーそのものです。アイデンティティーを尊重してこそ、教員と学生という関係を超えた人間関係を築き、豊かなコミュニケーションの場をつくることができると信じています。
(イラスト:奥崎たびと)

(イラスト:奥崎たびと)

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