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型技術 特別企画「実録!中小金属加工業の事業承継」

2026.02.16

パートの事務職から社長に! 未来に向けて新たな社風を醸成中―開明製作所

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 創業者・従来経営者の親族による事業承継やM&A に加え、もう1 つの事業承継形式が「従業員による承継」だ。かつての一般社員が経営者になる立身出世の夢のある話に見えるが、承継する側は経営者としての自覚・責任など、さまざまな準備を要し、取り巻く事情は単純ではない。そんな事業承継を経た中で、経営者が前向きに仕事・社員と向き合い、リーダーシップを発揮している金属加工の現場がある。

リケジョの面目躍如

 開明製作所(横浜市旭区)は1956 年創業で複合旋盤やフライス盤による超精密で微細な加工を手がける。製造品は売上高の約6 割を占める半導体製造関連部品をはじめ航空・宇宙、医療、光学、精密機械部品など、広範囲の分野に及ぶ(図1、図2)。
図1 展示会用に製造した超精密部品

図1 展示会用に製造した超精密部品

図2 4 ピース構成のコマ

図2 4 ピース構成のコマ

 従業員13 名の同社を率いるのは梅田八寿子社長(図3)。もともと創業家との縁戚関係はなく、パートタイマーの事務職として採用されてからキャリアを積み上げた。2017 年1 月に同社の3 代目社長になり、同年8 月に代表取締役に就任した。事業承継から8年が経ち、新しい経営理念と事業方針のもとで社内は活気づいている。「従業員の誰もが『この会社に入って良かった』と思えるようになるまで頑張り通す覚悟でいます。そして、次の世代にスムーズにバトンタッチするのが私の使命」と梅田氏は話す。
図3 梅田八寿子社長

図3 梅田八寿子社長

 梅田氏は香川県高松市で建設資材業を営む家の長女として生まれた。子供の頃からモノづくりが大好きで高校卒業後は神奈川県平塚市にキャンパスのある東海大学理学部物理学科に進学した。いわゆるリケジョである。大学卒業後にいったんは四国に帰って就職したが、大学時代の同窓生との結婚を機に再び神奈川に移住。一男二女の母となり、しばらくの間は専業主婦となったが、「機会があれば社会復帰したい」と考えていた。転機が訪れたのは1996 年4 月、33 歳のとき。公共職業安定所(ハローワーク)で開明製作所の求人を見つけた。2 代目社長の石館治良氏と面会すると、梅田氏と同じ東海大学の出身の11 歳年上の人であることがわかり、話がはずんでパートの事務職として採用された。

入社すると、すぐに気づいたのは「アナログ的な仕事が多い」ことだった。帳票は手で書く。在庫については1 個1 個調べる。作業指示書ももちろん手書きで、紙にハンコを押して現場に回すというやり方だった。梅田氏はそれらを見て、「ちょっと待てよ、これってルーティーンの仕事じゃないか」と思った。「そうであれば、きちんとシステム化すれば効率は良くなるし、間違いがなくなり皆が楽になるのではないか」と。その年の夏、カレンダーの裏紙に構想を書いて先代に提案した。リケジョの面目躍如である。

 先代はそういうことに関して柔軟な考えをもつ人であり、「じゃあ君、やってみるかい」と背中を押された。これが自前の生産管理システムを生み出すきっかけになった。基本ソフト(OS)選びから始め、1996 年9月にはシステム構築をスタートさせた。梅田氏は、パソコン操作は好きだったが、システムエンジニアではないので一つひとつ学びながら進めていった。それでも翌97 年の2 月にはテストランにまでこぎつけた。その後もシステムの改良を重ね、2000 年には、電子データ交換(EDI)から外部データを取り込むインポート処理などを含む生産管理システムを構築した。現在に至っても臨時機能を追加し続けている。同システムは専門家でも高く評価するほどの出来映えだった。また、これらの経験によって梅田氏はパートの身分でありながら、顧客との間で工程管理や進捗管理の話ができるまでになった。

先代に認められる存在に

 パート歴は9 年間に及んだが、その間、梅田氏は生産管理システム以外にもさまざまな業務を修得した。実は、当時の社長(以下、先代)は神奈川県中小企業家同友会の代表理事を務めるなど社外活動が多く、会社を留守にしがちであった。不在中に顧客から連絡が入ると、初めのうちは伝言で対応していた。しかし、「これではお客さまに失礼だ」と、猛勉強して図面を読めるようにした。また品質を担保するために自ら測定機操作も身につけ、刃物づくりや卓上旋盤を使ったモノづくりなども徐々に覚えていった(図4)。「お客さまの役に立てる。そういう達成感を得られるようになると、仕事が楽しくなり、自信がもてるようになりました」(梅田氏)。
図4 汎用卓上型小型旋盤

図4 汎用卓上型小型旋盤

 もっとも、「誰よりもよく働いている」という自負はあったものの、当時のパートの時給は600 円程度で、とても家計は回らない。そこで先代に「私、ほかのアルバイトもしたいのですがいいですか」と話すと、「それだけはやめてくれ、処遇は考えるから」と言われた。かくして05 年に事務部門の正社員となった。梅田氏の働きぶりはめざましく、先代もそれを認めて07 年に管理部長、その数年後には社長の次職となる専務取締役に抜擢した。

「私がまだパートだった頃から、先代は何となく後継者の候補として見ていてくれたようなのです」(梅田氏)。社内にはモノづくりの課題や人的課題などさまざまな課題がある。先代はそれらの課題について梅田氏に相談し、意見を求めることが多かったという。「あるとき、先代に連れられて中小企業家同友会の会合に参加したら、多くの人が私のことをご存じだったのです。『あなたが梅田さんですか。システムをつくった方でしょう』と。しかし先代に直接褒められた記憶は一つもないのです」(梅田氏)。

 先代の口から初めて「社長交代」という言葉が出たのは07 年頃のことだ。実は、同社は長い間、2 億円を超える借入金(負債)を抱えてきた。しかし、メインの半導体部品に加えて航空機部品の需要が伸び、負債が1 億円を切るところまで減少した。先代はこの状況を喜び、「よし、この調子で借金がゼロに近づいたら社長交代だ」と口走ったという。しかし、その喜びも束の間、08 年のリーマン・ショック、11 年の東日本大震災の影響を受け、負債は再び膨らんだ。こうして1 回目の社長交代のタイミングは失われたのである。

突然の事業承継

 そこに追い打ちをかけるように2015 年、先代の病気が発覚する。腎臓がんのステージ4 であり、やがて入退院を繰り返すようになった。唯一の救いは、梅田氏は専務として先代と二人三脚で切り盛りしており、役割分担も明確で社業に大きな支障が生じなかったことだ。営業関係と管理部長の仕事は梅田氏が担当。製造部の部長は誰よりもモノづくりをよく知る先代が兼任した。特に先代は見積もりを得意としたため、梅田氏は事案が発生するたびに図面を携えて病院へ行き、その場で打合せをしていたという。しかし、先代の病気からの復帰が見込めない中、2017 年1 月、先代に替わって梅田氏が3 代目の社長に就任した。

 それから半年後、先代は死去した。「社長交代したあとも、まだまだ生きていてくれるだろうと思っていたので、大変なショックでした」(梅田氏)。また、のちになって梅田氏が悔やんだのは、事業承継に関する先代の意思や会社の実情を細かく知ることができなかったことだ。「私としては、存命中の人に亡くなったあとの話をさせるのは酷であり、失礼だという思いが強く、ついついお茶を濁すような会話に終始してしまっていたのです。例えば、財務面は先代が一人で切り盛りしていたのでわからないことが多く、いざ蓋を開けたら『おやおや』というものが結構ありました」(梅田氏)。

 社長交代はしたものの、誰が代表権をもつかということも決まっていなかった。そんなこともあってか、一時は「社長は梅田氏になったが、代表は創業家から出すらしい」という憶測まで飛び交った。しかし、筆頭株主であった先代の母親の「代表も梅田にやらせないとダメだ」という鶴の一声により2017 年8 月、梅田氏は代表取締役に就任した。

新たな経営理念と経営指針を定める

 梅田氏は、「当社にとっての事業承継は完了したわけではなく、むしろこれからが本番だと思っています」という。その一つが、従業員のやる気の醸成と社内の意思統一だ。梅田氏が社長に就任した当初、従業員を前にして「こういう方針でやりたい」と話しても、「それって、ちょっと違うのではないか」と違和感をもつ人がいた。また現状の課題点を把握するため、従業員にいろいろなことを尋ねたが、それを窮屈に感じる人もいた。「先代からはそんなことは言われなかった」と。実際に反旗を翻す人も現れ、さらにその状況を見て嫌気がさして退職する人もいた。体制が変わると付いていけない人が出るのは、どの会社にもありがちだが、梅田氏は「こうした状況を放置してはいけない」と、組織としての仕組みづくりを行うことにした。

 その一つは、ほとんど有名無実になっていた従来の経営理念に替えて「開拓と探究を貫き 信頼と価値をはぐくみ 夢と未来を創造します」という新しい経営理念を定めたこと。もう一つは、理念に基づき、技術や経営にわたる細かな経営指針を作成したことである。

 事業計画の中で梅田氏が特に重要視したのは在庫の持ち方である。これは梅田氏の積年の思いでもあった。先代は数字上の利益を出すために在庫をうまく使っていた。しかし梅田氏は、それは本来の決算書ではないと思っていたのだ。本来の決算書は「赤字であれば赤字」と出していくべきだと。「売れるものを持っているならよいのですが、売れるかのごとくしておくのは正しくないと思ったのです」(梅田氏)。22 年から進めてきた財務強化計画の最中、緩やかに在庫削減に着手して2 年目、利益が想定を下回ったこと、隣接工場の火災による被害など、さまざまな事態の渦中で「今だ」と在庫処分に踏み切った。具体的には在庫として持つ量を3 カ月分と決め、総量を一気に1/3 くらいにした。その結果、2024 年11 月決算では有効在庫のみとなり、社内に空きスペースが生まれ、すっきりした(図5)。
図5 管理が行き届いた書類棚

図5 管理が行き届いた書類棚

社内の風通しが良くなる

 事業承継から8 年経過した今日、社内の風通しが良くなり人材も育ってきた(図6)。例えば、現在の製造部長と管理部長は2 人揃って極めて有能な人材である。同社は量産型ではなく、多品種少量型の会社なので、景気が悪くなっても作業量は減らず、人手不足になりがちだ。そのため、求人の際は応募者の能力に過度な期待をせずに募集をかけることが多かったが、そうすると簡単に入社して簡単に辞める人が出てくる。「そんな状況を見かねて、社員が『社長、やみくもに採用するのではなく、選択して採用しなきゃダメです。何なら1 次面接はわれわれがやります。結果として少数精鋭になっても、それはそれで良いじゃないですか』と言ってくれたのです」(梅田氏)。ちなみに製造部長は大林祐也氏、管理部長は大林葵氏であり、2人は同社で知り合った夫婦である。
図6 日常的に現場でコミュニケーションをとる

図6 日常的に現場でコミュニケーションをとる

次の事業承継は伴走型で臨みたい

「創業家からすれば、会社の立ち上げ時からの苦労は並大抵のことではなかったとは思いますが、従業員上がりの私からは、もう少し従業員の方に目をかけてもらいたかったという気持ちがありました」。

 梅田氏はパートの期間が長かったが、仕事ぶりを賃金などで評価してもらう機会があまりなかった。例えば、世の中では賞与という形で従業員に還元しているが、パートの梅田氏は賞与をもらった経験がなかった。「私は開明製作所が好きだったから継ぎましたが、これからの中小企業経営者は創業一族だけでなく、従業員全員で分配することを念頭に置かないと、事業は続けられないと思っています。特に大事なのは、従業員が『この会社に居て良かった』と思える会社にすること。それには賃金を良くするだけでなく、設備を更新してやる気になってもらうとか、ほかにもいろいろな方法がありますが、今後はそういうところに資金を投じたい」と梅田氏は話す。

「かつては孤軍奮闘のような状況でしたが、今は協力者が増えました。私は、幸せを求めるためには、やはりコツコツと地道にやっていくことと、自分自身を信頼する力を育むことが大事だと思っています。次の社長も従業員の中から出したい。そして社長候補が見つかったら、伴走期間を設けてきちんと育て、継承していきたいと思っています」と梅田氏は語っている。

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