おがた あきこ:薫事長、OISHIエンジニアリング㈱代表取締役 神奈川県川崎市出身。留学経験後、日本と海外の文化や交流に興味をもち、旅行専門卸業勤務を経て、中小企業向け業務システム会社を立ち上げ。中国浙江省・杭州市にて業務経験ゼロから金型メーカーを事業承継。日本では金型商社事業と工業・農業系地方創生・海外ビジネス交流事業も手がける。
中国では2025 年初頭に話題となった生成AI「DeepSeek」から約1 年が経過し、2026 年に入るとByteDance 社が開発したAI「豆包(Doubao)」が急成長しています(図)。DeepSeek が研究者・技術者向けのオープンソースAI として注目されたのに対し、豆包は一般消費者向けの商用AI として急速に普及し、日常生活に必須のツールとなってきています。中国の春節期間には大規模なプロモーションが行われ、商品検索・比較・購入アドバイス・決済までをAI との会話の中で完結できる仕組みが話題となりました。その結果、2026 年3 月時点で1 日のアクティブユーザー数が1 億6,000 万人を超えていると報じられています。
図 TikTok でおなじみのByteDance 社が開発した「豆包」
一方、この急速なAI 普及の裏側では、新たな問題も指摘されています。代表的なのが、ショッピングサイトにおけるAI による価格設定アルゴリズムです。中国のEC プラットフォームでは、新規顧客の獲得を重視するため、アプリ利用頻度や購買履歴に応じて価格や割引率が変化する仕組みが一般化しています。結果として、利用頻度の高い既存顧客ほど割引率が低くなるケースもあり、「常連客ほど高く買わされる」という逆転現象も起きています。そのため、一部のユーザーは安く購入するために別のスマートフォンや新規アカウントを使うといった現象も生まれています。
このようなAI の社会実装は、消費の世界だけではなく製造業にも大きな影響を与えています。特に中国の金型産業では、AI は単なる補助ツールではなく、設計・製造・品質管理の全工程を再構築する技術として注目されています。長年の課題であった技術の属人化や人材不足を解決する可能性をもつ技術として、AI 導入は急速に進んでいます。
AI 導入を後押しする政策
中国はAI と製造業の融合を国家戦略として位置づけています。2026 年1 月、中国工業情報化部を含む8 つの政府機関は「人工知能+製造」特別行動計画を発表しました。この政策では金型産業を国の重点分野の一つとして明確に位置づけており、2027 年までに産業AI エージェント1,000 件、AI 活用の具体的な応用モデル500 件を目標に掲げています。
さらに中国金型工業協会では、AI 導入を加速させるための「産業エコシステム型モデル」が提唱されています。これは、産業分野ごとのリーディング企業を中心にAI 企業、大学、研究機関、地方政府が連携する仕組みで、このエコシステムに金型産業が中核として深く入り込み、産業の成長を加速させるとともに金型産業自体のレベルアップを目指しています。中国の金型産業は中小企業の割合が非常に高く、単独企業ではAI 投資が難しいケースが多いため、産業集積地単位でAI 導入を進める動きが強まっています。政府や地方自治体は、AI 導入を支援するプラットフォームや産業データ基盤の整備を急ピッチで進めており、AI 投資に対する補助金制度も多数発表されています。
実用段階に入るAI
中国金型産業におけるAI 導入には、近年大きな変化が見られます。今までのAI の活用は主に、画像検査・設備監視・シミュレーションといった単一工程内での活用が中心でした。多くの企業でAI は補助ツールとして扱われており、設計や製造の核心部分は依然としてベテラン技術者の経験に依存していました。
しかし近年では、ベテラン技術者の経験に頼っていた設計や加工条件の決定を、AI がデータから導き出す仕組みが広がりはじめています。AI は単なる補助ツールとしてではなく、設計・工法設計・加工・品質管理を横断するプラットフォームとして実用段階に入りつつあります。
経験依存型からデータ駆動型へ
中国金型産業のAI 導入で最も大きな変化をもたらすと期待されている点は、「経験依存型」から「データ駆動型」への転換です。
金型産業はこれまで、ベテラン技術者の経験に支えられてきました。例えば、射出成形金型の設計では、樹脂流動や冷却バランスを考慮した流路設計やゲート位置の決定が必要になります。理論計算やCAE 解析などのツールは存在しますが、最終的な判断では設計者の経験や勘に依存する部分が少なくありません。試作段階でも同様です。試し打ちの結果を確認しながら温度や圧力、保圧時間などを微調整していく作業は、長年の経験をもつ技術者の判断によって進められてきました。このような「経験依存型」のモノづくりは、高度な技術力を生み出す一方で、いくつかの課題も抱えています(表)。
AI の役割は、ベテラン技術者の経験を奪いデータに置き換えることではありません。経験をデータとして蓄積し、再利用できる仕組みで企業の資産として技術の価値を高めるツールとなることです。
従来の金型設計では、経験豊富な設計者が過去の事例を思い出しながら構造を検討していました。一方、AI を導入した設計環境では、過去数千件の設計データを学習したAI が数秒で複数の設計候補を提示します。ベテラン技術者の仕事は、AI が提示した選択肢を評価・判断し修正することへと変化し、若手技術者でも一定の品質で金型設計が実行できる可能性が広がります。
中国の金型産業では、こうした単なる設計支援ツールの導入ではない、金型産業における知識の蓄積方法そのものを変える取組みを通じて「経験のデータ化」が急速に進みつつあります。