型技術 特別企画「次世代のために書く『社長の始末書』」
2025.05.28
火事を発端とした倒産危機を乗り越え、従業員が夢をもって働ける「開発型」企業を実現―浜野製作所
墨田区発だからこその「開発型」企業
中小製造加工メーカーの名前を全国区にするのはなかなか難しいが、東京都墨田区に工場を構える浜野製作所の名前を知る人は多いだろう(図1)。同社は精密板金加工を中心にプレス金型製作・プレス加工、機械加工など幅広い金属加工を手がけるが(図2)、近年ではそれらの加工技術を基盤に、墨田区や早稲田大学との産学連携による次世代の電気自動車「HOKUSAI」や、深海探査船(江戸っ子1 号)など、設計開発にも注力。また開発設計にとどまらず、例えばある企業の要望に応え、浜野製作所で設計開発した機械を使用したデータ収集・分析を行い、そのデータの販売を行うプロジェクトなど推進中。顧客や時代のニーズに柔軟に応え成長を続けている。
図1 同社外観。町工場のイメージを払拭する明るいデザイン
2020 年にはNHK の「魔改造の夜」(大手メーカー、中小企業、大学がそれぞれお題に沿って既製品を魔改造しその完成度を競う番組)に出演。お題の一つであった「トースター高飛び」では一番の成績を残した。自動車メーカーや有名大学にいっさいひけを取らず戦う、おそろいの赤い作業着を着た同社社員の様子はSNS でも話題に上がり、浜野製作所(番組中ではH野製作所)の名は全国区となった。
同社の操業は1978 年、プレス金型製作を手がける小さな町工場としてスタートしている。現在でも金型製作は行っており事業の柱の一つではあるが、当時からすれば現在の事業内容はずいぶん様変わりした。
「土地代も人件費も高く、騒音振動の問題への配慮が必要で効率の良い大きな工場をつくる土地もない。もしかしたら、日本の中で最もモノづくりに適していない場所かもしれず、他の地域や海外の生産拠点と同じモノづくりをしてもとても太刀打ちはできないし、勝ち目はない。ただ、一見すると最大のデメリットに見える『東京・墨田』という地域性もモノづくりの考え方・枠組み・仕組み・目線・視野を変えることで最大のメリットになるモノづくりがこの地域から発信できると考え、事業構造を変えて来ました」
そう話すのは同社の2 代目であり、現在は代表取締役CEO である浜野慶一氏。小さな町工場を開発型企業に発展させた経営者だが、浜野CEO によるとそれは少し違うのだという。「今の会社になるための種をまいてくれたのは創業者の父。そして育ててくれたのはここまで一緒に来てくれた社員。失敗と反省の繰り返しを支えてくれましたし、それがなければ当社の『今』はなかったと思います」。
2 代目若手社長から現在に至るまでの約30 年にはさまざまな試練と反省、そしてそれをチャンスに変える行動があった。
モノづくりは誇り高い仕事
前述のように同社の創業者は浜野CEO の父である、浜野嘉彦氏。「当時墨田区中にあった、自宅兼工場でした」と浜野CEO は述懐する。ちょうど浜野CEOが大学を卒業する頃はバブルの好景気にわいており、浜野CEO 自身も大手企業の就職を目指し就職活動にいそしんでいた。そんな様子を見ていた父はある日、浜野CEO を飲みに誘う。そこで言われたのが「モノづくりはな、誇り高い仕事なんだ」という言葉だった。
「今まで小さな薄暗い工場で、母とケンカしながら働く父を見るたび、『きっと仕方なくこの仕事をしているんだろうな』と思い込んでいました。ところが仕事の話をする父は本当に楽しそうで、大きい会社に行くことだけを考えていた自分は本当にこのままでいいのか。ふと、疑問に思いました」
熟考の末「会社を継ぎたい」と父に相談。すると「お前の代は多品種少量生産がカギだ。板金を学んだ方がいい」とアドバイスがあり、修行をかねて東京都板橋区にある板金加工メーカーで働くこととなった。同僚にも恵まれ充実した時間を過ごしていたが、数年で父が急病により帰らぬ人となってしまう。
2 代目就任直後の両親の急死、そして火事
慌てて家業に戻り、1993 年に同社社長として浜野製作所を支えるべく働くこととなった。経理を行っていた母のサポートを受けながら手探りで仕事を覚え始めたが、2 年も経たぬうちに今度は母も他界してしまう。1 人だけいた従業員も高齢により引退してしまい、30 代半ばの浜野CEO たった1 人となってしまった時期もあった。その後、古巣である板橋区の板金メーカーで働いていた頃の同僚である金岡裕之氏(現・専務取締役)が入社してくれ、二人三脚の操業が始まった。金岡氏はプレス金型への造詣が深く、板金加工についても実践的なノウハウを身につけている。父の生前のアドバイスである「多品種少量生産がカギ」という言葉を信じ、2000 年9 月には小さいながらも板金工場の操業もしようと準備を進めていた、そんな矢先。同社のプレス工場および自宅が、近隣の工事中の火花を発端としたもらい火により、全焼してしまったのだ。
「忘れもしない2000 年6 月30 日です。火に包まれる工場を見ながら、近所の不動産屋に走り、その場で貸し工場の契約をしました。とにかく今あるお客様の仕事だけはお納めしないといけない。それだけでした」
幸い家族や従業員の金岡氏にケガはなかったが、設備や家族の思い出すべてが灰に。焼け跡からなんとか金型を探し出し、整備することから始めた。プレス機械は使い物にならなかったため、30 万円ほどの45 tプレスを買おうとしたがそれすら手が出ない。結局1台1 万円ほどの蹴飛ばしプレス2 台を購入し、わずかながらの加工を行った(図3)。しかし、非効率な機械なこともあり、なかなか思うように仕事のやり繰りが付かない。惨めさと絶望感に押しつぶされそうだった、と浜野CEO は振り返る。
図3 窮地を一緒に切り抜けた2 台の蹴飛ばしプレス
社員からの「まだウチは倒産してないですよ」
日にちがたち、火事の原因究明が進むとともに、火元の工事現場を監督していた住宅メーカーから保証金が支払われることになった。同社の工場も含めた17棟が燃える大火災だったこともあり「なんとか6, 000万円で手を打ってほしい」と言われ、とうてい足りないとは思ったがこれを承諾。やっと光が見えてきたと金岡氏とともに喜んだのだが、この後さらなる波乱があった。なんと、この住宅メーカーが倒産してしまったのだ。
「いよいよ明日、書類にサインをして手続きをするぞ、という日です。金岡と並んで、弁当を食べながら昼のNHK のニュースを見ていました。するとテレビから件の住宅メーカーの名前が聞こえてきて続けて『倒産』と。開いた口がふさがらないとは、まさにあのことですね」
取るものも取りあえず、住宅メーカーの営業所に走ることになった。「これから、何をどうしたらよいのか?がまったく考えが及ばなかったのですが、『ともかくこのタイミングで休みを出すのでしばらく、体を休めてくれ。1 週間かかるか、2 週間かかるのかわからないが、今後、どうするべきか?を死に物狂いで考えるから』と金岡に伝え、飛びだしました」。当時はなんとか客先に納品すべく昼夜を問わず金岡氏も浜野CEO とともに働いており、給料も未払い状態だった。申し訳なさからせめて身体だけは休めておいてほしいと思ったのだ。
結局、危惧していたとおり住宅メーカーの営業所は閉まっており誰とも話すことすらできなかった。これからどうしようか、と考えつつとぼとぼと工場に向かって歩いていくと、工場の一角に灯りがついているのが遠目にもわかった。光熱費も惜しいときに金岡氏が消し忘れたのか、と苦々しく思いつつ工場に入ると、そこには、金型のさび落としに精を出す金岡氏がいた。驚きつつもどうして帰らなかったのか、と聞くと金岡氏は「だってウチはまだつぶれてないでしょう」と答えた。そしてこうも言ってくれた。確かに給与や休みは大事だけれど、それだけではない、浜野CEO と働きたいから、自分はここにいるのだと。
「経営者の自分が何をあきらめてたんだ、と心から反省し、感動した瞬間でした。今後どうなるかはわからないけれどまだ一緒に働いてくれる従業員がいる限り、その従業員に感謝し、還元できる会社になろう。夢と希望にあふれた仕事ができる会社になろうと決めました」
取引先をどうやって増やすか?─どんな業界にも必ず「隙」がある
立ち上がった浜野CEO はまず工場を建て直すべく、東京都振興公社や墨田区などから助成金をうけた。とはいえ、いわゆる「借りた資金」である以上いつか返さねばならない。仕事を増やす必要があったが、当時の同社の取引先は零細企業の4 社のみ。今はとにかく行動するしかない。大手メーカーに勤めていた大学の先輩に企業の紹介をお願いすると、4 社もメーカーを紹介してもらえた。しかし、正念場はここからだ。
「ご挨拶にうかがうと、紹介ですから一応話は聞いてくれる。でも『じゃあ設備や従業員はどんな具合ですか』と聞かれたら蹴飛ばしプレス2 台に従業員は私を入れても2 名と正直にお答えするしかない。相手はもうドン引きでそれではお話にならないとやんわり断られる。それでもアポイントをとっては通っていたのですが次第に居留守を使われ、ならばと『近くに来たのでご挨拶に』と突撃したり。そのうち今度は玄関先で私を見た瞬間、担当者の方があわてて大きく腕で×印を見せてきたりね」
面白おかしく当時のやりとりを振り返る浜野CEOだが、もちろん愉快な体験ではない。ただ、そんなやりとりの中でも少しずつその会社の内情が見えてくる。どんな部品を使っているか、どれくらいの規模のどんな設備をもった加工メーカーが納品をしているのか。競合他社の情報を集めながら、いつなら浜野製作所が入り込めるか、我慢強く機会をうかがった。そして。
「あるとき、今日も門前払いかなと思いつつも挨拶にいくと、あの腕で大きな×印まで描いていた担当者の方が手招きをしてくれる。ついていくとある製品の図面を見せてもらいました。一品もので納期も短いけど、できる? と言われ。納期を聞くと2 週間と言われ、なるほどこの会社の短納期は2 週間なのかと密かにまた頭の中にメモをしました」
言われたとおりの納期で納めていたら能がない、と1 週間で製品を仕上げ、持っていったが期待したお褒めの言葉はなかった。ところが数日おいて、また同じような一品ものを頼みたいと電話がかかってきた。信頼の端っこをつかみかけている、と手応えを感じた浜野CEO はとにかくどの仕事も言われた納期の半分で納め続けた。そしてついに「おたくをずっと便利屋みたいに使うのは申し訳ない」と月額で200 万円規模のリピート品を任せてもらえるように。最初に挨拶に訪れてから1 年が経っていた。ちなみに同じく通っていた3 社からも同じような経緯をたどった末リピート品を受注し、なんとか月額800 万円程度の売上げを立てる見込みが経った。
4 社に通ううち、浜野CEO が気づいたのは、どこも一品ものの短納期の対応に苦慮しているということ。段取り替えの手間を考えれば一品ものは面倒であり、なおかつ利益にならないため、理由をつけて断る加工メーカーは多い。人数も設備もほかの取引先に劣る自社が入り込めるのはここしかない、と浜野CEO は照準を定めていた。小さいながらも前々から板金加工の設備を揃えていたのも、そんなニーズに柔軟に対応できる基盤となった。
「どんな業界・企業も困りごとがあり、そこが隙になる。その隙をどうやって探し、どうやって信頼をつかむか。まずはあきらめないことが大切です」
コツコツと信頼を積み上げ、ニーズをつかみ対応し続けた結果、現在の同社の取引先は6, 500 社を超えている。
社員第一に考えた社長交代を
「改めて、自分の今までを振り返ると根源的な失敗はもっと早くから父といろんな仕事の話をしておけば良かったということ。当社の礎になった板金加工技術の導入など父は先見の明がありましたし、技術のこと、経営のこと。もっときちんと聞いていればよかった。反省と同時に後悔があります」
そう語る浜野CEO は2024 年10 月に社長の座を同社社員であった小林亮氏に譲り、現在は新社長のサポートに当たっている。親族外の新社長は若く、同社をさらに盛り上げてくれる人材だと自信をもっているが、あえて代表権は手放さずにいるのには理由がある。
「最近、特に父親から息子へ社長業をバトンタッチすると前社長はいっさい会社に関与しない姿勢を貫く会社さんが多い。もちろん、新社長に自由にやってもらうことは良い効果も生みますし、痛い思いをしてぐっと成長されるパターンもある。しかし、私個人としてはその過程の混乱に一番苦労するのは、会社に今まで貢献してくれた社員なのではないか、と思うのです」
浜野製作所を選んでくれた社員には上層部を発端とした混乱に巻き込みたくない。そのためには何かあったとき、社員の気持ちを汲んでストップをかけることができる存在がいた方がよいと考えているのだ。また自身は十分な引き継ぎができなかった浜野CEO だからこそ、元は自社の社員であった小林社長に、代替わりを発端とした不必要な苦労をしてほしくないという気持ちがあるという。
同社には研究開発の専門部署はなく、プロジェクトに応じて板金やプレス加工を行う社員が、図面を描き、加工し、組立てや実証実験までを行う。多能工化はもちろん人材育成教育の仕組みも大事だが、なによりそれを行う社員自身のモチベーションが高くなくては成り立たない。
世間の町工場のイメージからは掛け離れた明るい同社内・工場では若手を中心とした社員が活発な意見を交わしながら打合せを行う様子が見られる(図4)。浜野CEO が目指してきた「社員が夢をもてる会社」は着実に実現されているのだ。
図4 モノづくり実験施設「Garage Sumida (ガレージスミダ)」は新規事業開発支援の場であるとともに、社員の憩いの場でもある