型技術 特別企画「次世代のために書く『社長の始末書』」
2025.07.17
海外拠点立ち上げ、震災復興 困難の先に見つけた経営者としての“情報”に向き合う姿勢―岩機ダイカスト工業
岩機ダイカスト工業はアルミダイカスト、スクィーズダイカスト、亜鉛ダイカストなどの幅広いダイカストおよび、金属粉末射出成形(以下、MIM)を手掛ける加工メーカーだ。本社は宮城県山元町にあり、その他同町に小平工場、坂元工場、また関東の拠点として埼玉工場(埼玉県新座市)を保有。海外拠点として米国アリゾナ州でも生産拠点(Tucson PrecisionProducts)を持ち、北米・メキシコへの製品供給にも柔軟に対応している。ダイカストの8 割はエンジンコントロールユニットや安全支援関連(カメラ)などの自動車関連で近年はEV 関連の製品需要が増加。また、MIM は歯列矯正などの精密かつ強度が必要な医療関連の微細部品を多く製造している(図1、図2、図3)。
図2 MIM の成形・ダイカストと同じくロボットを活用した自動化が完成されている
そんな同社を2023 年8 月より率いるのは3 代目となる齋藤明彦社長。「経営者としてまだまだ新米」と言うが、米国生産拠点の立ち上げや社内の新規工場やシステムの構築、そして2011 年3 月11 日に発生した東日本大震災からの復興など、さまざまな試練を乗り越えてきた。
独自の成形技術と地元の支えで発展
同社の創業は1968 年で創業者は地元出身者である故齋藤吉雄氏(相談役)。当時周辺の産業は農業のみであり、そんな同地に「ダイカスト産業」を根付かせるべく奮闘してきたのだという。
「当初は大阪のダイカストメーカーで仕事をし、ダイカストの加工はもちろん金型の製作でもずいぶんと腕の良い技術者だったようです。その後訳あって帰郷し、『ダイカスト屋をやりたい!』と機械を1 台入れ、地道に東京で営業して金型を預かって量産。その後は自宅を一部改装し、金型製作も始めました。当社の独自工法はこのとき、時間をかけ考案されていったと聞いています」(齋藤社長)
同社のダイカスト加工の大きな特徴は、金型と製造時の独自の工夫で「より小さな機械で大きな製品を実現する」こと。例えば、通常成形に250 t の成形機を使用する製品を、同社では125 t の成形機で成形する。機械が小さい分当然使用電力は少なくなり、ハンドリングも簡単になる。金型もそれに応じて小さくなるためメンテナンス性は高く、そもそもトン数の小さい成形機での加工は金型へのダメージが少ない。これらの効果からおおよそ1~2 割程度のコストダウンが可能となっている。
前述のように創業当時同社の周辺産業は農業のみ。しかし齋藤相談役は粘り強くダイカスト生産について啓蒙・教育し、周辺地域の理解を得て、少しずつ地元の若者を採用し社員を増やしていった。ちなみに2 代目として社長に就任した鎌田充志氏(現会長)は隣町の出身で社員からの生え抜き。齋藤相談役が会社の成長に貢献してくれた地元出身社員を信用していたことがよくわかる抜擢だ。
アリゾナの大地に茫然─米国合弁会社・工場の立ち上げ
そんな歴史を持つ同社に齋藤社長が入社したのは1987 年のこと。入社からしばらくは主に品質管理を担当した。その後、齋藤相談役の長女と結婚したが、転機が訪れたのは1995 年。米国との合弁会社設立にともない、その工場立ち上げを任せるという指令が下ったのだ。工場の場所はアリゾナ州のツーソン。メキシコにも近く、北米全域・メキシコ方面への製品輸出に好立地だった。合弁相手は米国企業でチェーンソーや汎用キャブレターなどのダイカスト部品を岩機ダイカスト工業から購入していた取引先メーカー。経営は同米国メーカーが、技術関連は岩機ダイカスト工業側が担当し、資本金を6 対4 とする取決めだった。米国メーカーとしては自社で使用するダイカスト部品を米国内で量産してもらうことで調達のコストダウンが可能となり、岩機ダイカスト工業としても合弁会社とは別の北米・メキシコ向けの製品の製造拠点を持つことができる。
「当時26 歳と若く、何が何やらわからない状態でしたが日本から輸送する機器の搬入のため1995 年10月に現地に向かいました。『建屋がある』と聞いていたので何とかなるだろうと思っていたら、なんと赤茶けた大地にぽつんと工場の外枠があるだけ!電気も水道もなく、当然トイレなども整備されていない。これがアメリカか、とカルチャーショックでしたね」
齋藤社長はそう笑いながら述懐する。その後3 カ月はインフラ整備しながらの機械搬入で大いに苦労したが同社にとって初めての海外拠点。早く操業し、生産して軌道に乗せたい一心で必死に働き結果1996 年の3 月には量産を開始した。
毎年数億の赤字! 金型さえよければ、の思い込みが仇に
齋藤社長の苦労に応えるよう動き始めた合弁会社工場だが早速思いもよらぬ困難に直面する。「量産が始まってから1 年後、1997 年の3 月と10月のボードミーティングで数億円の赤字が出たこと、そしてその4 割を当社が補填しなければならないことが決まりました。負債まで負担するとは当時の当社経営陣も想定していなかったことで、皆ショックだったと思います」(齋藤社長)
当時の齋藤社長の主な役割は現地社員たちとコミュニケーションを取りながら生産管理・品質管理を行うこと。毎日順調に生産計画をこなしているのにどうして赤字が出るのか、まだ若い齋藤社長は困惑したが「とにかく仕事を増やそう、もっと働けばきっと黒字になる」と心に決めた。日本の営業部と連携しながら国内の工場で担当していた仕事を積極的に移管し、またソルトレイクシティオリンピック(2002 年)のBS 放送を照準に需要が増加していたパラボラアンテナの先端部品を受注。後加工(切削)を内製化することで付加価値をつけた量産を実現。ここまでやれば、と齋藤社長は自信をもった。しかし。
「私がアメリカにいたのは2000 年の4 月まででしたが、残念なことにその間も赤字は出続けました。これは後でわかったことですが赤字の原因は米国メーカー側のずさんな管理に加え、『自社向けの部品を安く抑えたい』という意向をもとにした過剰に安い原価設定。おそらく齋藤相談役(当時社長)は決算書を見ていましたから、原因は察していたとは思います。しかし、『社員を井の中の蛙にしたくない。儲けはなくても海外には出る必要がある』という考えから、米国拠点を残したようです」(齋藤社長)
結局2007 年には合弁を解消。その後経営を立て直し完全子会社化。現在では当社にとって重要な海外生産拠点となった。しかし齋藤社長の中には後悔が残った。
「当社の歴史においても創業者がつくりこんだ質の良い金型が発展を支えてきましたし、近隣の協力会社にてダイカスト部門を立ち上げることになった際も当社の金型と技術者を一定期間貸し出すことで軌道に乗せられた。これらの成功体験は社内の『ダイカストではきちんとした機械・設備、そして何より金型さえあれば必ず成功する』という考えにつながり、私自身もそう信じていました。米国での経験は貴重で、大いに成長させていただきましたが一方で、今振り返るとわからないなりにもっと社内の状況を観察すべきでしたし、調べるべきだったと反省しています」(齋藤社長)
東日本大震災に悟った近代製造技術の脆さ
帰国後も齋藤社長はさまざまな課題が与えられた。ISO9000 番の取得や坂元第一工場の立ち上げ。また初めての購買と出庫管理システムの導入と運用も進めた。多忙だが充実した日々を過ごし、2009 年には製造部の取締役に。そして2011 年3 月11 日。同社は未曽有の大災害、東日本大震災に直面することとなった。
「あの日は金曜日で、また係長以上が所属する課長会の旅行を翌日に控えていたせいもあり社内も何となく明るい雰囲気でした。ところが突如立っていられないような揺れが襲い、そこからあっという間に非日常に放り込まれました」(齋藤社長)
本社工場は幸い比較的高台にあったおかげで大きな津波の影響もなかった。地震直後に電気が止まったが鎌田会長(当時副社長)と、「社員もケガをしていないし、よかった。すぐ電気もつくだろう」と話し合った。ところが時間がたつにつれ被害の深刻さが浮き彫りになってきた。
「たまたま埼玉工場の社員との慰安旅行で九州にいた齋藤相談役より『大丈夫か!車が流されている映像見たぞ!』と電話がありました。このときは『やっぱり三陸のほうには津波が来たか』と思っていたのですが後々黒い煙のようにも見える第3 波を自分の目で遠くに見たとき、これはとんでもないぞ、とやっと実感しました」(齋藤社長)
いったん帰宅した社員たちも夜になると子供たちを連れて再び工場に避難してきた。ストーブや毛布で子供たちを守りながら寝ずの晩をしつつ工場の設備を見て回った。電気は一向に戻らない。ダイカスト成形機への影響は軽微に見えたが、溶解炉は電気が止まってしまえば中のアルミが固まってしまう。このままでは設備が使えなくなると焦りが募った。一方、慰安旅行からまず埼玉工場に戻った齋藤相談役は取引先や設備メーカーに連絡を取り、15 日には車で数名の社員とともに無事本社に戻ってきた。とにかく電気がなければ何も始まらない。「発電機を手配しよう!」と言われ齋藤社長は「この何もない中どうすれば」と途方に暮れた。しかし、とにかくあちこち声をかけているうち、東北電力のグループ会社や取引先を通じて建機メーカーからも発電機や軽油まで提供してもらえることとなった。復興するうえで建機の増産は不可欠であり、それには同社のダイカスト部品も必要。地域や関連企業一丸となって復興のために走り出した。
「20 日ごろになって電気を確保し、やっと溶解炉に火を入れることができました。炉の損傷からアルミが溶け出る可能性もあるため、十分注意しながらの復旧作業。齋藤相談役が『近代技術なんて脆いものだ』と言ったのを今でもよく覚えています」(齋藤社長)
そのとき、齋藤社長を含め経営陣の脳裏に浮かんだのは同社がその前年まで所有していた2 台の自家発電設備だった。数年間にわたり所有していたが設備メーカーの倒産、そして高値になりつつある重油を使うため年間1 台当たり100 万円の維持費がかかった。結局いつ使うかもわからない発電機には大きな金額だと撤去をしていたが、間違った判断だったと肩を落とした。
「200 万円は確かに大金ですが、あの当時の復旧までの困難を思えば惜しくない金額だったと今ならわかる。安易にコストカットせずしっかり費用対効果を検討するのも大切です」(齋藤社長)
社内外一丸となった復旧への活動を続け、3 月末頃からは量産を再開することができた。
情報は外でも内でも、必ず取りに行く
今までの経験を振り返る中で、齋藤社長が経営者として大切なのは「社内外の情報を取りに行く姿勢、そしてそれをすぐに行動に活かす心構え」だという。
「米国では若輩なりに決算情報をしっかり見るべきでしたし、発電機の件は撤去前に同業他社がどうしているかなどの綿密な調査をすべきだった。特に社内の情報はそれこそ経営者が本気になれは社員全員と会話して得ることだってできる。社員が報告してくれる情報をしっかり精査し、外の情報も積極的に取りに行く。なおかつそこから出た答えに向かって迷わず動く。東日本大震災でも動けば必ず何か情報があって次が見えました。どんな状況でも、動き続けることです」(齋藤社長)
実は東日本大震災前にもう1 つ、齋藤社長を驚かせた「社内情報」があった。リーマンショックの直後、しばらく量産数が落ちるが材料の購買はどうすべきかと担当部門では議論になった。そこで齋藤社長が実際の材料を確認するとなんと100 t もの材料がそこにあったのだ。
「これから生産は落ちるというのに、と唖然としました。当時は私が立ち上げた購買と出庫管理システムが動き始めたころでしたがそれでもまだ社内にこんな『秘密』が隠れていた。内にも外にも、アンテナは張り続けないといけないのです」(齋藤社長)
震災からの復興を経て、同社は現在も事業の拡大を継続。2025 年2 月26 日には主にMIM を行う小平第二棟を竣工。連続脱脂焼結炉1 台をすでに導入しており、AGV なども活用した自動化に特化した最新工場の構築を目指す(図4)。
図4 新棟に入った連続脱脂焼結炉。全国的にも珍しい設備で同社の高い生産性に貢献
EV もMIM(医療関係)も現時点はおどり場状態だという齋藤社長。しかし、今後の受注拡大はあるとにらみ、現在を設備・人材の準備期間ととらえる。外部コンサルタントなども活用しながら濃度の高い改善活動を中心にした人材育成を進めている。「失敗したらまた次取り返せばいい。経営者には決算書という通信簿があるんですから」と齋藤社長は言い切る。日々大きく流れを変える次世代のモノづくりを、情報と行動力で前に進める。