プレス技術 連載「世界のなかの日本、日本のなかの世界」
2025.10.23
第8回 「6次の隔たり」とセレンディピティ
帝京大学 平田 好
ひらた よしみ:日本語教育センター センター長。早稲田大学卒業後、1995 年からベトナムを皮切りに世界各国で日本語教育に携わる。2021 年に帝京大学共通教育センター教授に就任し、2022 年から現職。修士(国際関係学。2000 年早稲田大学)。
「6 次の隔たり」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。英語では、“Six Degrees of Separation”と言うそうです。5 人の仲介者(あなたから6 人目)で、世界中の人々すべてとつながっているという説です。あなたの知人の知人、そのまた知人…と辿っていくと、地球上の約80億人の特定の人に、意外と簡単に辿り着けるそうです。
インターネットで簡単に即座に連絡できる現在は、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で知人の知人、そのまた知人にすぐつながれるので、多くの人に「6 次の隔たり」を信じる感覚があるのでしょう。しかし、インターネットがなかった20 世紀、人々はどのように出会い、その人が知り合いの知り合いであることをどのように確認していたのでしょうか。
ホームパーティーでの驚きの出来事
先日、友人のリエンさんが5 年ぶりにベトナムから来日しました。彼女とは、1990 年代に筆者がベトナム中部の町・フエで仕事をしていたときに知り合い、長らく家族ぐるみで交流を続けています。彼女は筆者と同世代。つまり、物心ついたときにはベトナム戦争が始まっていました。
リエンさんが日本と日本語に興味をもったきっかけは、1970 年代に街中の拡声器から聞こえてきた歌でした。日本人のシンガーソングライターによる反戦歌(後に、横井久美子さんによる「戦車は動けない」という歌であることが判明)に惹かれて、独学で日本語を学び始めたそうです。
そして1993 年、フエ師範大学に、日本のNPO支援による日本語クラスが開設されましたが、足が不自由で車椅子で生活しているリエンさんの入学は残念ながら認められませんでした。そこで、日本語クラスの日本人教師がリエンさんの日本語学習を支援していました。筆者は1995 年に同クラスの日本語教師として着任し、その直後に、先輩教師からリエンさんを紹介してもらいました。週に1 ~ 2 回、ご自宅に伺って、ベトナム語を習ったり、日本語を教えたり、おいしいベトナム料理をご馳走になったり、という生活をしていました。そして、リエンさんや彼女の家族が来日したときには東京でいっしょに食事をして、現在に至るまで交流が続いています。
さて、今回の来日に際して、リエンさんを囲むホームパーティーが開かれました。再会を祝して何度も乾杯をしていたところに、少々遅れてやってきた男性がいました。なんと筆者の同僚(帝京大学経済学部の教員)K さんです。ベトナム関連の研究実績、ベトナムでの実務経験もありますが、フエで仕事をしていたという話は聞いたことがありません。K さんとリエンとのつながりについてまったく想像ができませんでした。「え! K さん!どうしてここに?」と声をあげるとともに、「あ、リエンさんが昔言っていた『K さん』って、このK さんだったの!?」と思い出しました。
K さんは、フエに日本語クラスが開かれる前、フエに住む日本人がいなかった頃に、リエンさんの前に現れた初めての日本人です。1990 年代初頭、大学入学前のK さんはベトナムを旅していました。ホーチミン市からフエに鉄道で向かっていたところ、車内でリエンさんのお父さんに声をかけられたそうです(と言っても、リエンさんのお父さんは、ほぼベトナム語しか話さないはず。当時のK さんのベトナム語がどの程度通じるものであったかも不明です)。そして、フエで降りるときに「娘が日本人と話したがっているので、うちに泊まりなさい」と言われたとのこと。そこからK さんとリエンさんとの交流が始まったそうです。
憧れの歌手との幸運なつながり
リエンさんが聞いた反戦歌についても幸運なつながりがあったことをお伝えしましょう。1990年代、K さんも先輩日本語教師も筆者も、リエンさんが出会った多くの日本人は、「この歌を歌っている歌手は誰ですか」とリエンさんから尋ねられました。しかし、誰もわかりませんでした。2000 年代になって、リエンさんと日本とのつながりが広く深くなり、インターネットが発達してきたことも相まって、とうとう横井久美子さんの「戦車は動けない」という歌であることがわかりました。そしてリエンさんは横井さんと直接つながり、2007 年にはコンサートで一緒に「戦車は動けない」を歌うことになるのです。2021 年に横井さんは他界されましたが、横井さんの歌は、反戦の思いとともに歌い継がれていくことでしょう。
さて、今回のリエンさん来日の1 カ月前に、筆者の友人であるO さんが、フエのリエンさん宅を訪問しています。O さんは初めてのベトナム旅行で、事前に筆者に助言を求めてきました。そこで、フエに行くなら、リエンさんを訪ねてみることを勧めたわけです。
実は、O さんと筆者が初めて出会ったのは、1980 年代初頭、イタリアのローマを旅しているときでした。当然スマホもインターネットもありません。しかしカメラをもっていた大学生は写真を撮り合って、帰国後に写真を送ることを前提として住所を教え合ったものです。約束通りに写真(当然、紙焼き写真)を送ってくれる人は少なかったのですが、O さんは律儀に写真を送ってくれました。しかし、その後は連絡を取り合うこともなく、O さんの存在は10 年以上忘れていました。
ときは流れて、1990 年代前半。筆者の元同僚が台湾から帰国するので東京で会おうということになりました。なかなか日程調整がつかなかったところ、元同僚から、彼女の大学時代の同級生とのホームパーティーへの参加が提案されました。知らない人のお宅にお邪魔することは少し躊躇しましたが、参加してみれば同年代の気安さで、10名近い人数で楽しい時間を過ごしたものです。
偶然の出会いが長年にわたる友情に
そして、帰宅してから、ふと思い出し、パーティーに参加していたO さんの名刺を再度見てみました。O さんの名前は、男性としては特徴がある名前です。もしかしたら、あのときに写真を送ってくれたO さん?私の名前も、女性としては特徴がある名前です。O さんも同様に思い出したようです。そして、その後、数十年にわたりOさんとの友情が続いている次第です。
K さんとリエンさんのお父さんがベトナムの車内で出会ったのは偶然、O さんと筆者がイタリアで出会ったのも偶然です。こうした偶然をセレンディピティ(Serendipity)と呼ぶのではないでしょうか。思いがけない偶然が幸運をもたらすものです。
今回の話に登場する人物をつなげてみれば、「6次の隔たり」よりも隔たりは少ないようです。SNS の「Facebook」の2011 年の調査によると、世界中のどのユーザーとでも4.7 人を介在させるとつながれるそうです。でも、SNS の中での出会いよりも、現実世界での偶然の出会いの方が幸運をもたらす気がするのは筆者だけでしょうか。