プレス技術 連載「世界のなかの日本、日本のなかの世界」
2025.05.29
第1回 インターネットとグローバル化の30 年
帝京大学 平田 好
ひらた よしみ:日本語教育センター センター長。早稲田大学卒業後、1995 年からベトナムを皮切りに世界各国で日本語教育に携わる。2021 年に帝京大学共通教育センター教授に就任し、2022 年から現職。修士(国際関係学。2000 年早稲田大学)。
日本から脱出するために日本語を勉強した
私が日本語教育に携わるようになって、はや30 年が経ちました。生まれも育ちも東京である私が思うところあって地元を離れる手段として選んだのが「日本語」でした。「日本語教師になって外国で教える」という目標を見いだしたのは1994 年。新卒から11 年間勤務した会社を退職して次のステップを模索していた私は日本語教師養成講座に通い、翌年の日本語教育能力検定試験を目指すことにしました。
当時の日本語教育能力検定試験は年1 回、1 月下旬に行われていました。1995 年1 月17 日、検定試験を10 日後にひかえた早朝、阪神淡路大震災が発生しました。この日の朝、私は都内の自宅から職場に向かうバスの中で日本語音声学のヒアリング教材をイヤホンで聞いて最後の復習をしつつ、時折、音声をラジオに切り替えて地震のニュースに耳を傾けていました。未明に発生した地震でしたが、時間が経つにつれて被害状況が明らかになって恐怖したことを思い出します。そして試験当日、会場はどこかの大学の教室。空調がお粗末で底冷えのする寒さでしたが、努力の甲斐あって何とか合格し、3 月には認定証が手元に届きました。
ちなみに1986 年より始まった日本語教育能力検定試験は、日本語教育に必要な体系的知識が「基礎的水準に達しているか」を検定する民間試験です。国家試験や公的試験ではありませんが、教育スキルを実証するために必要でした(2024年から実施されている「日本語教員試験」は、国が定める認定日本語教育機関で日本語教育を担当する「登録日本語教員」になるために必要な資格試験です)。
日本語教師として変わりゆく社会を目の当たりにした
さて、1995 年9 月、目論見通りに東京を脱出して、私は「外国」で日本語教師になりました。目指したのはベトナム中部の都市「フエ」。ベトナム最後の王朝である「阮(グエン)朝」の首都であったことから、日本で言えば京都のような古都に当たります。
平日は毎日、フエ師範大学の教室でベトナム人学生らと向き合い、いわゆる「日本語ゼロ初級(全く日本語を知らない段階)」から2 年間で「日本語能力試験1 級」合格を目標とするカリキュラムのもと指導をしていました。同大学は、中部地方各地の大学から選抜された約40 名を対象として集中的に日本語を教える特別コースを設けており、これがベトナム中部で唯一の日本語教育機関でした。
当時は、大多数の人がネットの使い方はおろか存在すら知らず、固定電話さえ持っていない家もある時代でした。唯一の連絡方法は直接に家を訪ねること。日曜の朝などは学生たちが突然、私の住まいに来て、一緒に遊びに行こうと誘ってくることもたびたびでした。そして、国営の百貨店(とは名ばかりで商品種類は100 もなかったような店舗)では愛想のない店員が睨みを利かし、市場に行けば商品には定価がなく、商魂たくましいおばさんと交渉しなければなりませんでした。日常の買い物をするにも「適切な品物」を「適切な価格」で自力で入手できる技量が必要でした。残念ながら、フエで3 年間暮らしても私はそのような技量を身に付けることもできず、ベトナム語があまり上達しなかったことも相俟って、学生や学生の家族に甘えっぱなしだったことを白状しておきます。
それから30 年。今では、ベトナム中部の2 都市(フエ、ダナン)でも年2 回の日本語能力試験が開催され、3,000 人を超える受験者(2023 年12月実績)がいます。フエ外国語大学、ダナン外国語大学には日本語科があり、日本語を正規外国語科目として教えている中学校や高校もあります。さらに2024 年9 月、フエ市内にイオンモールが開店しました。延床面積13 万m2 超、駐車場1,200台ですから、日本国内の巨大ショッピングセンターに引けを取らない規模です。もちろん商品には定価があり、笑顔の店員が客を歓迎し、価格交渉力や商品選別眼がない外国人でも買い物を楽しむことができるに違いありません。そして誰もがスマホを持ち、ベトナム語を話せない日本人観光客でもGoogle 翻訳、DeepL、ChatGPT などを使って、ベトナム語の案内や商品説明も理解できるはずです。日本語を話すベトナム人から「こんにちは。日本の方ですか」と声を掛けられるかもしれません。
周囲に支えられた海外生活
新米日本語教師として教壇に立ち始めた頃の私は知識も技術も不足し、考え方も行動も稚拙で今から思うと恥ずかしくなります。それでもベトナムの学生は教師である私の話を真剣に聞いてくれ、熱心に勉強してくれました。また、ベトナムの言葉や文化を知らず、時に失礼ともとれる言動・行動をする外国人(私)をあたたかく迎え入れてくれました。また学生のみならず、同僚や周囲の人々も仕事や生活全般にわたって手助けしてくれ、守ってくれていました。
フエでの3 年間は、私の日本語教師としての原点です。言語も文化も生活習慣も価値観も異なる土地で暮らすことを「たいへん」「苦労が多い」とネガティブに捉える方もいるかもしれません。しかし、外国での経験は自分の世界を広げ深めたと私はポジティブに捉えています。
その後、私は日本での大学院生活を経て、2001年より国際交流基金から海外に派遣される日本語教育アドバイザーとなりました。それぞれの国・地域で2 ~ 3 年間ずつ、現地の日本語教師とともに日本語教育の支援をしてきました。ベトナムには通算6 年以上、ラオスで3 年、カナダにも3 年いました。中国では北京を拠点として各地に出張し、メキシコ駐在時にはメキシコだけでなく中米・カリブ海諸国でも仕事をしました。オーストラリア・シドニー拠点での仕事を最後として日本に定住して、2021 年から都内の私立大学で留学生を対象とする日本語教育に携わっています。
この30 年間、世界も日本も大きく変わりました。これからは生成AI がもたらす変化と、人々の国境を越えた移動による変化がさらに激しくなることでしょう。在留外国人はさらに増え、日本語教育だけでなく全ての現場で生成AI をいかに活用していくかが大きな課題となっています。本連載では、これから読者の皆様ととともに未来につながる「世界のなかの日本、日本のなかの世界」を考えていきたいと思います。
余談ですが、最近では映像や音声データをスマホで再生しワイヤレスのイヤホンで聴いたり、自動翻訳を使って外国人とコミュニケーションをとったりとデジタルを活用するのが当たり前になっています。ですが、私が日本語教育能力検定試験の勉強をしていた頃はまだまだアナログ全盛の時代。デジタルの普及はネットの普及まで待たなければなりませんでした。若者たちにはネットがない時代の不便さは想像できないかもしれません。ただ、技術は進歩してもコミュニケーションの本質は変わりません。むしろ進歩するほど人と人のつながりが問われてくると思っています。