プレス技術 連載「世界のなかの日本、日本のなかの世界」
2026.02.10
ひらた よしみ:外国語学部長 兼 日本語教育センター長。早稲田大学卒業後、1995 年からベトナムを皮切りに世界各国で日本語教育に携わる。2021 年より帝京大学教授。2022 年より日本語教育センター長、2025 年より現職。修士(国際関係学、2000 年早稲田大学)。
前回に引き続き、留学生がアルバイトをしている居酒屋に行ったときの話です。勤務中の彼女は、筆者を見るなり、笑顔で「先生!」と声をかけ、同僚たちに「この方は、私の大学の先生です」と紹介してくれました。
思わず「恥ずかしいから言わないで」と言ってしまったのですが、彼女は、少し不思議そうな顔をして、「どうしてですか。大学の先生は立派な仕事です」と言うではありませんか。その瞬間、自分が何を「恥ずかしい」と感じていたのか、改めて考えさせられました。
「恥ずかしい」が含む意味
日本語の「恥ずかしい」は便利なようで、実にいろいろな意味がある語です。失敗して「恥ずかしい」、褒められて「恥ずかしい」、他人の前で目立って「恥ずかしい」。同じ語でも、そこに含まれる感情の方向や強さはさまざまです。
英語で言えば“embarrassed”や“ashamed”、あるいは“shy”などに分かれるのでしょうか。日本語の「恥ずかしい」はそれらをひとまとめに包み込んでしまう感がします。「自分が他者の目にどう映っているか」を気にしているからかもしれません。
アルバイトをしている留学生にとって、「先生」を「先生」と呼ぶことは当然の表現であり、彼女が「大学の先生です」と同僚に紹介したのは、「自分の先生が店に来てくれた」という誇りを共有する行為かもしれません。また感謝や敬意を示したかったからでしょう。
一方、筆者は、居酒屋という通常であれば匿名で過ごせる場において「自分の職業が明らかになること」に戸惑い、場の調和を乱すような気がして「恥ずかしい」と反応したのでしょう。つまり、筆者の「恥ずかしさ」は、他者の評価を意識しすぎる、日本的な文化に根ざしているように思います。
言葉の背景にあるもの
このような感情の違いは、日本語学習者にとって重要な学びのテーマになります。日本語教育は、文法や語彙・発音といった知識を教える場と捉えられることも少なくありませんが、むしろ「恥ずかしい」、「うれしい」、「申し訳ない」といった感情や感覚を表す語の背景を理解することが重要であり、これらは日本語が第一言語ではない人々が「日本語で生きる」うえで欠かせない学修項目と言えます。
ある留学生は、クラスで口頭発表するときに、人の前では「緊張して恥ずかしい」と言いながらも、実は「自分の日本語が下手だと思われるのが怖い」と感じていたようです。日本人の同級生から「恥ずかしがり屋なんだね」と言われ、「悪口を言われた」と受け取ったケースもあります。このように、「恥ずかしい」は、文化的文脈によって意味の輪郭が変わる言葉と言えるでしょう。
授業で学生の発言を聞いていると、「恥ずかしい」という言葉にさまざまな感情が込められていることがわかります。日本人学生にとっては自己抑制や謙遜の表れでも、留学生には「自信がないように見える」こともあります。逆に、留学生が堂々と自己主張をすると、日本人学生が「すごい!でも、ちょっと恥ずかしい」とつぶやく場面もあります。そこには、「他人と違うことを避けたい」という日本的な感覚がにじんでいるように見えます。
個よりも関係性を重視する日本社会
社会人類学者の中根千枝の著作『タテ社会の人間関係』(講談社、1967 年)では、日本社会を「タテ社会」と呼び、個よりも関係性が重視されると述べられています。まさにそのなかで「恥ずかしい」は、人と人との距離を測るセンサのように働いているのではないでしょうか。恥ずかしさを感じることで、私たちは無意識のうちに「場」を守り、「他者との調和」を保っているのでしょう。
しかし、グローバルな環境では、このセンサが必ずしも有効ではない場合もあります。むしろ、過度な「恥ずかしさ」が、自己表現の妨げになることさえあります。
居酒屋での一件以来、「恥ずかしい」という言葉を使うたびに、少し立ち止まって考えるようになりました。もしかしたら、「恥ずかしい」と口にするその瞬間こそが、自分が「日本語の中で生きている」証なのかもしれません。
トイレの“ あの音” の意味
最後に唐突ですが、日本では多くのトイレの個室に、ボタンを押せば「水が流れる音」が聞こえてくる装置があります。多くの外国人とっては不思議な装置ですが、この装置がないと、無駄な水を流しながら用を足す方も少なくないようです。「音が聞こえると恥ずかしい」に対して「誰でもする自然現象です。音がするのは当たり前じゃないですか」と主張しても、この装置はなくなりません。日本においては、「場」を守り、「他者との調和」を保つために必要な装置なのでしょう。
日本にいても、さまざまな「恥ずかしい」があります。自己の「恥ずかしい」を振り返り、他者の「恥ずかしい」を理解しようとすることは、相互文化理解の第一歩ではないでしょうか。