型技術 連載「外国人材から一目置かれるコミュ力養成講座」
2025.01.10
第3回 そもそも論に固執する日本人①
ロジカル・エンジニアリング 小田 淳
おだ あつし:代表。元ソニーのプロジェクタなどの機構設計者。退職後は自社オリジナル製品化の支援と、中国駐在経験から中国モノづくりを支援する。「日経ものづくり」へコラム執筆、『中国工場トラブル回避術』(日経BP)を出版。研修、執筆、コンサルタントを行う。
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筆者がソニーでの中国駐在から帰国した後、仕事仲間だった中国人の友人に「日本人の良いところと悪いところを教えてください」とWeChat で質問をしたことがあった。そのときの回答が図1 である。
図1 中国人の友人に日本人の良いところと悪いところを質問した回答(画像提供:小田淳)
後半の1)~5)を見てほしい。1)は融通が利かない、2)は硬いイメージ、3)の夢中になるは意固地になると意訳するとわかりやすい。4)は頑固、5)は漢字を間違えているが先入観である。筆者は、これらはすべて同じような意味であると考える。つまり、日本人の悪いところは「そもそも、べき、すじ論」なのだ。
「そもそも」は、「初めは」というような意味で「そもそも、この靴はランニング用で買った」という使い方ができる。「べき」は、「~して当然」という意味で「健康のため、駅まで歩くべきだ」となる。「すじ」は、「道理にかなう」といった意味である。「そもそも~だから~すべき」というように、「そもそも」と「べき」を合体させた言葉と言える。中国人は、日本人の「そもそも、べき、すじ論」が大の苦手だ。筆者の中国での経験では、そもそも内容が意味不明と思われていることさえある。
ゼレンスキー大統領の日本での国会演説
筆者も、日本人のこの「そもそも」に驚かされたことがある。それは、戦火の最中にいるウクライナのゼレンスキー大統領が、「日本の国会で演説したい」と日本政府に依頼してきたときで、テレビのニュースでこれに対する政府関係者のコメントが発表された。その内容は次のとおりだった。「前例がない。また、設備がないので検討が必要」。
国会にWeb 映像を映し出す設備がないのは理解できる。しかし「前例がない」の意味は何なのであろうか。「前例がない」は「そもそもやったことがない」と同義である。筆者は日本人的に次のように理解した。「そもそもやったことがないから、やってよいかいけないか判断がつかない。だから、やらない方が無難だ」。しかし、こうした考え方は中国人にはまったく理解されない。
イノベーションの数にも表れる「そもそも」の弊害
「やってもよいことだけをする」のが、日本人である。一方、「やってはダメなこと以外をする」のが中国人である。ここにはとてつもない大きな差が生じる。
図2 を参照してほしい。日本人は、「すべてのできること」の中の「やってもよいこと」だけを行う。しかし、その範囲は「すべてのできること」のごく一部である。一方、中国人は「すべてのできること」の中の「やってはダメなこと以外」を行う。図2 から、日本人と比較して、中国人のできることの範囲は圧倒的に多いのがわかる。
図2 やってもよいことをする日本人と、やってはダメなこと以外をする中国人
このように、できることの数に大きな差がある中でイノベーションが行われると、もちろんそのイノベーションの件数には大きな差が生じてしまうのだ。さらに、日本の1 億2,000 万人の人口と中国の14 億の人口を考慮すると、イノベーションの件数の差はとてつもなく開いてしまう。人口差はどうしようもないが、日本のイノベーションの件数を増やすには「そもそも、べき、すじ論」をなくすことが大切なのである。
「そもそも、べき、すじ論」を主張し、やってもよいと判断するのは親や学校の先生、会社の上司、行政である。そしてもしかしたら、自分自身の経験かもしれない。まずは、自分自身に「そもそも、べき、すじ論」がないかを見直す努力が必要だ。
そもそも論が生まれた理由
日本は信頼関係が大切な国である。それは島国で、外国人の流入が少ないからとよく言われるが、モノづくり大国に成長してきた日本には次の理由もある。
モノづくりには多額の出費が必要だ。樹脂製のパソコン用マウス大の部品の金型を1 つ製作するだけでもその金型費は約200 万円であり、40 インチ液晶テレビの樹脂製外枠ベズルの金型では約1,000 万円にもなる。もちろん、部品は1 点だけではないので、樹脂でできた製品を1 つつくるだけで、1,000 万円くらいの金型費は見込んでおく必要がある。そしてその金型費は、製品を販売することによって回収していかなければならない。
金型費をかけた製品を、日本の人口の約0.01%のシェアをとって約1 万個を販売し、金型費はすべて回収できたとする。その後、その製品の次期製品が発売されたときにはまた0.01%のシェアをとって1 万個を販売し、次期製品の金型費を回収していく必要がある。そのためには、ユーザーには自社の製品から離れてほしくない。したがって、ユーザーから製品やメーカーの信頼を得てリピートしてもらうことが大切になる。信頼を得る方法として最も一般的なことは、過去の成功事例を踏襲することだ。そしてこれが、そもそも論につながっていく。新たなことにチャレンジして失敗したくないのである。
一方、中国で同じ価格で製品を1 万個販売したとする。たとえその製品が壊れやすく製品の信頼が失われたとしても、次期製品では別の1 万人に販売すればよい。中国の人口は日本の10 倍以上いるので、別のユーザーはまだ9 万人もいるのだ。信頼を高めるために資金を費やすよりも、別のユーザーの発掘に資金を費やした方が安上がりなのである。よって、中国ではそもそも論は必要にならない。
これからのグローバル社会
これからは、グローバル社会がさらに急速に広がっていく。それには2 つの理由がある。1 つは、日本の人口減少に伴う外国人労働者の流入だ。もう1 つは、EV 化で自動車業界をはじめとする製造業のこれまでの系列化がくずれ、日本メーカーが海外に進出したり、海外メーカーが日本に進出してきたりすることである。このようなグローバル環境の中で、日本人同士にしか通用しない「そもそも、べき、すじ論」をいつまでも振りかざすわけにはいかない。そもそも論を理解できない外国人は意味がわからず、すぐに離れていく。
そうは言っても、日本のモノづくりに関して世界で優位性を保てる製品や部品の信頼性は、このまま維持していかなければならない。日本が絶対的に世界で勝てる最重要のポイントだからだ。言葉や発想における「そもそも、べき、すじ論」をなくし、モノづくりへの高い信頼性は維持していく。この相反する両輪がこれからの日本が目指すところとなる。