プレス技術 連載「世界のなかの日本、日本のなかの世界」
2025.12.25
第11回 言語圏で変わる敬意の表し方
帝京大学 平田 好
ひらた よしみ:外国語学部長 兼 日本語教育センター長。早稲田大学卒業後、1995 年からベトナムを皮切りに世界各国で日本語教育に携わる。2021 年より帝京大学教授。2022 年より日本語教育センター長、2025 年より現職。修士(国際関係学、2000 年早稲田大学)。
「ばあば。ばあば」と、マンションのエレベーターでいっしょになった幼児が筆者を見上げながらニコニコと声をかけてきました。「こんにちは」と返したのですが、父親らしい男性は、幼児に向かって「おねえさんでしょう?」と問いかけ、ばつが悪そうにしている間にエレベーターは1 階に到着。彼らは「お先に」と降りていきました。
昨今は、祖母を「ばあば」、祖父を「じいじ」と呼ぶ子どもが多いようです。その幼児の祖母は、筆者と同世代なのかもしれません。しかし、祖母とは明らかに異なる人物であることを認識したうえで、「ばあば」と呼びかけることができるのは、幼児でももっている画像認識能力の秀逸さではないでしょうか。
相手を認識し、呼びかける
その子は2 歳くらいでしょうか。画像認識能力という点ではAI も高度な能力を日々鍛えていると考えられますが、限られた語彙しか知らず、まだ文法的な文を使い始めることができない段階の幼児という点がポイントでしょう。人の姿や顔から得られる多種多様な情報から、その世代特有の特徴を抽出して「おねえさん」でもなく「おばさん」でもなく「おばあさん」でもなく、「ばあば」と呼びかけたのでしょう。もちろん、「おねえさん」、「おばさん」、「おばあさん」という語彙はまだインプットされていないのかもしれませんが、人間の姿から少なくとも性別と世代に関する情報を抽出して認識したことには違いありません。
「ばあば」と聞いて思い出すのは、ベトナム語の人称です。今から約30 年前にベトナムで仕事をしていたころ、初対面のベトナム人と話をするときに、どの二人称で呼べばよいのか、毎回戸惑っていました。
ベトナム語の二人称は変幻自在
ベトナム語では、親族名称の「おばあさん」、「おばさん」、「おかあさん」、「おねえさん」、「いもうと」が二人称にもなるのです。例えば、市場に行って店の方と話をする際に、目の前にいる女性を「おかあさん」と呼ぶか、または「おばさん」、「おねえさん」なのか、もしかしたら「いもうと」と呼ぶのがふさわしいのか、考えなければ会話ができないのです。当時の学生たちに、どのように判断しているのかと尋ねると、「そんなことは考えたこともない」と言われました。つまり、彼(女)らは、一瞬にして、自分との年齢差、および親疎の距離感までを測って二人称を判断しているのです。自然に身につけているので、私の質問自体を奇異に感じたのでしょう。
日本でも、名前を知らない方に「おかあさん」とか「おねえさん」と呼びかけるときがありますが、位置づけがベトナム語と異なります。ベトナム語の場合は、名前を知っていても、呼び方自体で敬意を表すことになります。そして、相手との関係性によって二人称だけでなく一人称も変化します。例えば、18 歳の学生と20 歳の学生が大学の寮で、同じ部屋にいるとします。姉妹ではありません。日本語であれば「すみません。野菜を買ってきてくれませんか」と18 歳の学生が20 歳の学生に言うところを、ベトナム語では「おねえさん、いもうとに野菜を買ってきてくださいませんか」となるのです。
留学生たちは「日本語の敬語は難しい」と訴えてきますが、多くの言語において、話し手と聞き手の関係性や親疎・距離感によって言葉は変化しているのではないでしょうか。筆者にとって、ベトナム語の一人称と二人称は、日本語の敬語と同様に思われるのですが、いかがでしょうか。
ファーストネームで呼びかける英語
英語圏の事例も紹介しましょう。カナダのアルバータ州教育省で仕事をしていたときは、朝の通勤時に同じマンションの住人とエレベーターでいっしょになることがよくありました。エレベーターの中の会話は、日本と同様にあたりさわりのない話題です。冬が長く、-20℃以下になる日もあるので、天気の話をよくしました。しかし、英語では「ばあば」はもちろんのこと「おねえさん」、「おばさん」と呼ばれたことはありませんでした。
それも当然、英語の二人称はYOU 一択です。しかし、YOU のままでは終わりません。初対面であれば「私は○○です。よろしく。あなたの名前を訊いてもいいですか。」と多くの方が言います。「私の名前は、ヨシミです。よろしく」、「ヨスィミー?」、「はい、ヨシミです」などとやりとりして、エレベーターを降りるときには、“Have aGood day, Yoshimi”と声をかけられ、「○○、あなたも良い日を!」と英語で応えたものです。相手の名前(ファーストネーム)を呼ぶこと自体が敬意と親しみを表していると理解しています。
前回(プレス技術9 月号)の連載で、筆者は学生に対して「どのような名前で呼ばれたいか」と尋ねているという話をしました。では、筆者自身は、学生からどのように呼ばれたいのでしょうか。多くの学生は、「ヒラタせんせい」と呼んでいますが、筆者自身は「ヒラタさん」でも「ヨシミさん」でもよいと考えています。
中国出身の留学生同士の会話の中では、きっと平田老師(Píngtián lǎoshī)と呼んでいることでしょう。「平田」を「ヒラタ」とは発音せず、中国語の発音で「ピンティエン」と。そして「老師」は「先生」に相当する敬称です。ベトナム語話者同士であれば、Cô Hirata(コ・ヒラタ)でしょう。「Cô」は、女性の「先生」に対する敬称です。
実は、ベトナム語で「Cô」は「おばさん」の意味もあります。そして、年配の女性に対しての敬称(英語で言えば“Madam”や“Mrs.”に近い)として「Bà」という呼び方があります。
学生は、どんなに年配の先生に対しても“BàHirata”とは呼びませんが、日常生活の中では、筆者は“Bà Hirata”と呼ばれても不思議ではない年齢になっています。
今度、マンションのエレベーターで幼児から「ばあば」と呼びかけられたら、「こんにちは。私はBà Hirata です。坊や、名前を聞いてもいいですか」と応えましょうか。いやいや、父親の男性が怯えるかもしれないので、よしておきます(笑)