中谷 雄一
1989年3月19日生まれ(35歳)
大阪府河内長野市 出身
責任技術者
趣味はアウトドアとツーリング。愛車はニンジャ400Rで、日帰り400km圏内ならどこでもフットワーク軽く出かける。社内にもツーリング仲間がいるため、キャンプや釣りなどを組み合わせた計画を立てるのが楽しい。仕事で根を詰めた分は外で解放、がモチベーション維持のコツだ。
蔣 婉婷
1987年3月26日生まれ(37歳)
中国 福建省 出身
工場長
泳げないがダイビングが趣味で、中級者のダイビング資格「アドバンス」まで取得。特にお気に入りのスポットは日本海の冠島。紺碧を泳ぎ回る鰯の大群などは素晴らしく、一度潜ると次々と出会いたい生き物が出てきて辞められない。次に行ってみたいのは沖縄。ついでに一緒に泳ぐバディも募集中だ。
和多 義彦
1988年8月30日生まれ(36歳)
大阪府門真市 出身
製造部リーダー
体を動かすのが好きで、フットサルでもテニスでもスポーツは誘われれば何でも参加する(ただし、諸事情あって野球以外)。最近はまっているのは22歳から始めていた「ゴルフ」。自然の中を歩きながら楽しめるのがよい。最近は周りの友人達もゴルフをたしなむようになり仲間が増えてうれしい。
中谷雄一さん(左)と蔣婉婷さん(中央)と和多義彦さん(右)
チャレンジを続けて開発型企業へ
同社の創業は2004 年。現在の社長である芦田竜太郎氏が創業した比較的新しい会社だ。当初は金型や機械部品などを加工していたが次第にカメラ関係の部品加工を経て射出成形金型の設計・製作、製作した金型を使用した成形、成形した部品の組立てまでを一貫して手がけるようになった。そして、近年では今まで培ってきた技術やノウハウを活用し、自社製品、特に医療機器などの開発・設計に注力。クラスⅡ(管理医療機器)の製造・販売が可能となる「第二種医療機器販売」の資格も取得し開発型企業としての発展を遂げている。「現在開発を手がける医療機器には、当社の部品加工、金型設計、組立ての技術。すべてが詰まっていると思います」と芦田社長も自信を見せる。
若手の多い会社のリーダーとして
同社の現在の平均年齢は30 代で若い社員が多く活気のある会社だ。中谷さん、和多さん、蔣さんはそれぞれの現場を守るリーダーを務めている。中谷さん、和多さんは中途入社した転職組で、前職では中谷さんは射出成形金型の設計を、和多さんは大型のプレス金型の加工や組立てをそれぞれ経験。実はすでに同社に入社していた和多さんの兄が「スカウト」してきた人材だという。「前職と変わらず金型の仕事をしていればいい、と言われたのですがこの会社ではそう簡単にはいかないんです」と2 人は笑う。
一方の蔣さんは2005 年に日本に留学生として来日。大学卒業後の就職活動で同社に出会った。「有名な日本の家電やカメラメーカーの仕事をしてると聞いて、一気に興味が湧きました。ちなみに当初は事務員として採用されましたが、不思議なことに今は“工場長” です」と蔣さんは笑う。前述のように同社の業務内容は多岐にわたる。「それぞれが一度は仕事で“地獄” を見ています」と3 人はうなずき合う。“地獄” というときつい表現だが、それだけの苦労があり、お互い、それぞれの奮闘の様子に勇気づけられてきた。
全力で考え見つけた「答え」を信じる
中谷さんの現在の「責任技術者」の肩書きは前述の医療機器の最終責任者としてのものだ。普段は医療関連だけではなく同社で最終の組立てまでを行う製品の生産・品質管理も行っている。「当社でハンディタイプの蛍光X 線分析機『VoXER』を開発することになったとき、本格的に組立てをやることになりました。『金型組んだことあるんやし、できるやろ?』と言われてなんとなく受けてしまったのが、試練の始まりでしたね」(中谷さん)。
同分析機は米国ベンチャーとの共同開発製品。素材に短時間かざすだけで鉄やクロム、マンガンなど元素の含有率を高精度に分析できる画期的装置だ。「使用する部品点数は400 点以上で集めるのも一苦労。また、この装置のX 線の発生させ方が特殊で内部を真空に保つ必要があるのですが、その機構を実現するのは難しい。たくさんの補助金も活用しつつ試行錯誤して形にしていきました」(中谷さん)。
問題は山積みだったが、一番難しかったのは装置の評価基準の確立。似たような装置は他社も開発しているが、それらとはX 線の発生方法が違うためVoXER だけの評価基準が必要だった。
「安全製に関する法律の知識も必要で、とにかく会う人すべてに助言をもらい、最後には『えい!』と1 人で決めきりました」。
この経験から中谷さんが学んだのは「まずは全力を尽くす。そして見つけた『答え』を信じること」。組立ての責任者である中谷さんが決めたルール、基準をもとに社内の工程が動き、組立担当者も手を動かす。ならば中谷さん自身がその「答え」を信じる必要がある。そして信じるためには「全力を尽くした」という確かな手応えが必要なのだ。
追い詰められつつ覚えた技術は一生モノ
一方、和多さんは総勢5 名の製造部でマシニングセンタ(MC)での加工を担当。また図面や納期を確認しつつ製造部全体の仕事を割り振る。和多さんの技術力を頼りにしている顧客も多く、直接指名のもと注文の電話が入ることもあるほどだ。
MC の3 次元CAD/CAM データづくりは和多さんがすべて1 人でこなしておりデータづくりの正確さ、そして早さは社内でも評判だがこれも一時期大いに苦労したおかげで身につけたものだという。
「入社してすぐ、1 人でほとんど経験したことがなかった3 次元CAD/CAM データ作製をして、MC を動かすというハードな状況だったのですが、今度は機械が今までの2 台から5 台に。文句を言う時間も捻出できない生活になりました」(和多さん)。
当時は加工現場に旋盤がなかったり、放電加工機の人手が足りていないこともあり、それらの加工をMC で一括して行うことに。するとさらに加工データは複雑になっていきパソコンが落ちてしまうような重いデータもあった。
「刃物の突き出し量を見る方法がわからずぶつけたりと散々失敗。思い出したくない時期です」と和多さんはいうが、その中でも少しずつ10 工程を1工程に集約できるコマンドを見つけたり、図面を見た時点ですぐ懸念点やパスが頭に浮かぶようになったりとデータづくりのスピードは上がっていき、現在の技術力を身につけることができた。今では若手が無理せず定時で帰宅できる現場環境を整えている。
「痛い思いして覚えたことは絶対に自分を裏切らない。ただやはり全員が健康やメンタルを損ねない現場が一番と痛感しました。自分の覚えた技術をできるだけ、働きやすさにも活かしたい」(和多さん)。
その立場からしか見えないものがある
蔣さんが工場長として率いるのは同社のグループ企業㈱ShinSei 精工。金型部品など部品単品の受注を行っている。入社後2 年ほどは事務員として働いたが、その後放電加工機などを担当しつつ、同社の中国・大連工場のメンバーとの間をもつ通訳としても活躍。「いつの間にか『現場の人』になっていました」という。現在では加工も行いつつ全体の工程管理や営業活動、材料手配なども行う。
蔣さんが工場長となったのは同社が立ち上がることになった2016 年。水道や電気工事に大連工場から人員の調達やサポート、機械の搬入出など、やったことのないことをこなす怒濤の日々だったが、中でも一番苦労をしたのは売上げをつくることだった。
「最初はShinSei の顧客の仕事を分けてもらいながら少しずつ実績を積み上げました。仕事を受注しなければ従業員の給料も払えないので必死です」。
次につながる仕事を得るため、少々無理のある仕事を現場に渡すことも増えた。しかしそんなとき、ふと難しい仕事や面倒な加工を頼まれたとき簡単に「できません」と言っていた自身の態度を思い返し大いに反省した。経営者や現場責任者の立場にたったとき、それぞれの事情があるのだと思い知り、「自分の幼さ」に気がつけたのだ。恥ずかしい気持ちもあったが、自身が大きく成長できた瞬間だという。
最近蔣さんが注力するのは、現場のさまざまな情報の「見える化」。材料が入ってくる時期や加工に関する注意事項などすべての情報を共有することでミスを減らし、少しでも業務を円滑に進めたい。
「情報を開示することでお互いの現場状況を正確に把握し、思いやった仕事ができる。みんなで無理なく、楽しく仕事ができる現場をつくりたい、それが今の目標です」。
次世代に渡せるものは
同社が製品開発にまい進する理由には、もう一つ「若手が主体的かつ前向きに取り組める仕事の創出」という側面がある。実際、前述の医療機器などのほかに、独特の機構を組み込んだ耳かき「CHOGOSSORI」など、すこしユニークで人目を引くBtoC 製品をクラウドファンディングなども活用しながら発売している。
「時代は日々変化していき、古いビジネスのやり方は彼らの役に立たない。ならば私たちが残してあげられるのは“チャレンジ精神” とその結果だけです」(芦田社長)。中谷さん、和多さん、蔣さんの3名が自身の失敗や苦労を話す表情は常に明るい。それは自身の挑戦とその結果が今を支える屋台骨となっているからだろう。