icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc
SEARCH

プレス技術 連載「モノづくり革新の旗手たち」

2025.06.25

金型設計力のさらなる強化で製品の付加価値増大に挑戦 顧客の課題解決に貢献する―山元

  • facebook
  • twitter
  • LINE

山元㈱  代表取締役社長
山元希企氏

順送加工に目を付け急成長を遂げる

創業のいきさつは。

父親(現会長 山元文夫氏)が東京墨田区のプレス加工メーカーで10 年ほど勤務したのちに独立して作ったのが当社です。もともとの勤務先の社長は同じ静岡出身で地元も同じ。電気技師の仕事をさせてくれると聞いて就職したものの、いざ入社すると金型設計部に配属されたそうです。ひたすらブラウン管向けの部品の金型を設計して金型のいろはを学び、技術者養成のための学校にも通わせてもらったそうです。
10 年ほど経った頃、自分でやってみたくなり、社長に相談すると「一人だとたいへんだろうから、仕事を回してやる」と応援してくれたそうです。1964 年、埼玉県草加市の自宅横の建屋にけとばしプレスを3 台導入し、金型を作りつつ量産も始めました。高度経済成長期も重なり仕事は順調に増えて、すぐに自宅横の工場が手狭になったため、1973 年に現在の越谷に移転して同時に法人登録しました。

順送加工を始めたのはいつ頃ですか。

移転前から一部始めていましたが、移転してからは順送がメインになりました。単発だと工程ごとにプレス機が必要になりますし、何工程もあるものが一つの金型でできたら儲かるに違いないと考え、一から独学で作ったそうです。実際、ポータブルカセットレコーダが流行した折、他社さんが単発型で部品製造していたのに対して、当社は順送型で製造。これでものすごく稼がせてもらったと聞いています。
高速プレス工程

高速プレス工程

ご自身の入社の経緯は。

新卒から10 年間銀行に勤務、1999 年、32歳のときに入社しました。親族から「自分の人生だから好きにやれ」と言われていたので、大学は文系、就職先も銀行に進みました。ところが入行して7 年目に父親から「なぜ会社に入らない」と怒られ、そこから3 年間断り続けてきたのですが、拒み切れなくなって転職しました。なので、しょうがなく入ったというのが正直なところでした。

気持ちの切換えはできましたか。

入社した以上、やるしかありません。自分を追い込むために妻子を残して一人独身寮に「単身赴任」しました。そこから3 年間、元日以外はひたすら仕事漬けの毎日でした。ドラ息子がいい加減なことをしていると思われたくないという気持ちからです。最初の1 年間で大体の部署で一通りの業務を経験、2 年目から3 年目にかけては従兄であり営業担当だった専務の下でお客様への拡販業務に従事しました。営業先では「そんなのもわからないのか」とずいぶん怒鳴られましたが、反面、可愛がってもいただきました。2001 ~2002 年の頃です。また国内と並行して2 年目の途中からは中国工場の立ち上げも任され、日本と中国を行ったり来たりの生活が続きました。

その後のキャリアは。

入社3 年で営業課長になり、そのタイミングで当社の営業も国内と海外に分かれ、専務が海外、私が国内の責任者となりました。数年後、ゼネラルマネージャーとして営業全般を統括する立場になりましたが、その時感じたのが「もっと現場を知りたい」ということ。営業はいろいろなところに目配せする必要があり、当然、現場もそのうちの一つです。そこで内々で別のメンバーに営業を任せ、自分は工場にどっぷりはまっていました。すると、皆が私のことを「工場長」と呼ぶようになり、遂にゼネラルマネージャー兼越谷工場長という肩書になりました。
調整済みの金型

調整済みの金型

41 件
〈 2 / 3 〉

関連記事